Work Text:
[1]
最初にその事件が起きた場所は、図書館だった。
スングァンが勉強を放棄してからは 30 分ほど経っていたけれど、隣のハンソルは真面目に勉強を続けていた。上の空のまま、その服の袖から飛び出した糸を引っ張り出す。ハンソルの方は特に気にもせず、ノートをめくっては問題を解き続けていた。
沈黙を破ったのはチャンだった。取り組んでいた数学の課題を手離して、二人に顔を向ける。
「ねえ、ちょっと教えてくれない?」
「んー?」
抜き取った糸をハンソルの小指に指輪のように結び終え、スングァンは手を離した。
「ヒョンたちって、付き合ってるの?」
急な質問に動揺して、思わずハンソルから体を離す。突然距離を取られた本人は、ノートから目を上げて不満そうに眉を顰めた
——
スングァンに向かって。
変な質問をしたのは、チャンの方なのに。
「 …… 付き合ってないけど」
ハンソルと目を合わせないまま、スングァンはようやく言葉を返した。
ハンソルと付き合ってるか?付き合いたいか?もちろん、スングァン自身も何度も考えた。でも、大学に入学して、出会った時から今まで、ハンソルが自分を恋愛対象として見ている様子はなかった。
そしてスングァンは、友達としてハンソルの隣にいる方を選んだ。告白してこの関係を壊すことになるより、その方がずっとマシだと思ったから。
自分の気持ちが周りにバレているであろうことは、分かっていた。スングァンを見る眼差しからして、少なくともジョンハンは気付いているんだろう。まあ、あのヒョンは誰の秘密でも知ってる人だから、例外かもしれない。
本人にさえ気付かれていないなら、それでいいんだけど
——
「うん、『まだ』付き合ってないよ」
ハンソルが、穏やかにスングァンの言葉を訂正した。思わずぽかんと口が開く。
今、なんて言った?
チャンは追及するのをやめなかった。好奇心をだだ漏れにして、質問を重ねる。
「なんで『まだ』なの?」
知りたいのはスングァンも同じだった。でも、ハンソルが返したのは笑顔だけ。机の向こうに手を伸ばし、チャンの髪をぐしゃぐしゃに撫で回す。
「大きくなったら教えてあげる」
不満げに口を尖らせたチャンが、ここぞとばかりに愚痴をこぼし始める。
誰も真面目に相手にしてくれない、年下だからってひどい、スンチョリヒョンよりも中身は大人なのに
——
。会話は一瞬で別の方向に転がっていった。
「さ、勉強しよう」
なんとかチャンを課題に集中させることに成功したハンソルが、スングァンに言った。
「むり。これ難しすぎ」
「無理なことないって。やってみなきゃね」
泣き言を言うスングァンの肩を軽く叩き、ハンソルは自分の教科書に向き直る。
その話はそれで終わりになった。
[2]
それからしばらくの間は何も起きなかった。スングァンの中で、図書館での会話自体を無かったことにできるくらいには長い間。
でも、魔法が解ける時はついにやって来た。
ウォヌと一緒に住むことになったミンギュの、引っ越しの手伝いに巻き込まれた日。蒸し暑い一日だった。
ミンギュのテレビをウォヌのゲーム機の横に置いて、スングァンは背中をぐっと伸ばした。顔の汗をシャツの裾で拭う。
両腕を上げて思いっきり伸びをして、凝り固まった体をほぐそうと振り向いたところで、リビングの反対側からの視線に気が付いた。なぜか小さな笑顔を隠しきれない様子のハンソルだ。
眉を上げて、無言で意思疎通を試みる。どうしたの?
ハンソルは顔を横に振った。なんでもない。
それでも、ハンソルはスングァンを見るのをやめなかった。強い眼差しのせいで、むず痒いような気持ちになる。
「ちょっと、見つめ合ってないで!これ運ぶの手伝ってよ」
冬服の入った重そうな段ボールを抱えたミンギュが、文句を言いながらリビングに足を踏み入れた。どこかの部屋からウォヌの抑えた笑い声が聞こえる。
ミンギュの頭に、透明な犬の耳がピンと立つのが見える気がした。
飼い主に一日中放っておかれた子犬みたいだな。声の主を探しに部屋を出て行くミンギュを見ながら、スングァンは思った。
ようやくスングァンから目を逸らしたハンソルが、車に残った荷物を取るために部屋を出ていくのが、視界の端にちらりと見えた。
荷物を全部片付けるのには、思ったよりも長くかかった。大体は、段ボールから出てくる変なフィギュアや家具についてウォヌに指摘されるたびに、いちいち言い返していたミンギュのせいだ。
とはいえ、その日ミンギュが笑顔を絶やすことはなかった。顔の筋肉を酷使しすぎて、ほっぺたが筋肉痛にならないか心配になるくらい。
その日の夕飯は、新居のもう一人の主人となったミンギュの奢りになった。近所の焼肉屋のデリバリー。
ミンギュ(外食するなら先にウォヌと一緒にシャワーを浴びたいと言い張った)と、ウォヌ(スングァンとハンソルのためにシャワーのお誘いを断った)の折衷案だ。
「このあとの予定は?」
ウォヌが軽い口調で聞いた。
床に敷いた新聞紙の上には食べ物が並んでいる。テーブルはまだ荷物で溢れていたけれど、誰にも片付ける元気は残っていなかった。
空いた床をなんとか利用しただけの割には、間に合わせのダイニングテーブルは良い出来だ。
ウォヌは、スングァンの手前にあるプルコギの皿に手を伸ばしながら言葉を続ける。
「金曜の夜だし、デート?」
言葉に詰まったスングァンを見たウォヌは、代わりにハンソルに視線を向けた。
「いや、付き合ってないから、『まだ』」
自分の耳が信じられなかった。皿の上で手が固まる。スングァンは、ミンギュの視線を感じながら箸をぎゅっと握り締めた。一挙一動を、反応のすべてを観察されているのが分かる。
全身の筋肉をどうにかリラックスさせる
——
幸い後の二人は、スングァンの不審な挙動に気付かなかった様子だった。
「そっか」
ウォヌが深く追及しなかったことに、スングァンは心の中で感謝した。ミンギュが食べながら漏らす感嘆の声以外は誰が喋るわけでもなく、その後の食事は静かに進んだ。
ハンソルと二人で家を出る前のミンギュのハグは、ただの感謝のハグにしては少し力強すぎる気がしたけれど、スングァンは何も言わなかった。
離れ際に、ただミンギュのがっしりした腕を軽く叩く。僕は大丈夫。そう伝えるために。
寮まで送るというハンソルと並んで歩きながら、スングァンはその手を取って指を絡めたい気持ちと必死で戦っていた。
[3]
ボーリングは楽しい遊びのはずだ。
ハンソルが連発するストライクのおかげで、自分たちのチームがリードしていた時は楽しかった。ハンソルの上手なプレーを見るのも(やると決めたことは何でも上手なやつだし)。スングァンはボールをガターに落とさないようにするので精一杯だったけど。大口を叩く割には結果の出ないスニョンのことを、ジフンがからかうところを見るのも楽しかった。
雰囲気が変わったのは、スングァンがハンソルの肩にもたれかかるのをスニョンが目撃してから。それから隣に座る恋人
——
ジフンにいつものように抱きついて、そして、あっさりと押し退けられてから。
スングァンの角度からは、スニョンの傷付いた顔がよく見えた。
「確かにダブルデートは構わないとは言ったけど。お前ちょっとやりすぎ、スニョン」
回された腕を振りほどくジフンの手つきは優しかったけれど、スニョンはメリケンサックで殴られたような表情をしていた。
「なんで?」
普段の賑やかさとは打って変わり、スニョンが静かな口調で言う。いや、ていうか、ダブルデートって何?
聞きたい気持ちはあったが、口を挟める雰囲気じゃない。スングァンはハンソルから体を離し、姿勢を正した。必要ならいつでも割り込めるように。
「キスもさせてくれないの?」
「二人きりになるまで待てるだろ」
ジフンが苛ついた様子で答える。
「どうして?俺と一緒のところを見られるのは嫌?」
スニョンが席から立ち上がる。恥ずかしさからか、もしくは腹立たしさからか、頬が燃えるように赤くなっていた。スングァンも立ち上がってスニョンの腕に手を置いたが、簡単に振り払われる。
「いつも無理させてるみたいじゃん。嫌なら最初っから俺と付き合う必要なんてなかったのに。酷いよ、ジフナ」
ハンソルをちらりと見ると、興味深そうに二人のやりとりを聞いているものの、仲裁する気はなさそうだった。
まったくもう。スングァンだって、こんなの一人で相手にするのは嫌なのに。
「悪かった、」
スニョンの様子を目にしたジフンが、静かな声で謝罪を口にする。「スニョン、ごめん」
スニョンが一瞬浮かんだ落胆の表情を覆い隠したのが分かった。平坦な声で言う。
「もういい。帰る」
「おい、待てって
——
」
これにはジフンも立ち上がった。まだ座っているのはハンソルだけ。ヒョンたち二人が目の前で喧嘩を始めているっていうのに、気にも留めない様子でゆったりと背もたれに身を預けている。なんなんだこいつ。
「もういいって何。どこ行く気」
「どこでもいいじゃん」
立ち去ろうと踵を返したスニョンが、出口に向かい一歩踏み出す。
その背中にジフンが声をかけた。静かで、落ち着いた声。
「スニョン」
「何?」
落ちた両肩、下を向いた口の端。スニョンの動作一つひとつが彼の傷ついた感情を物語っていた。スングァンには分かる。長い付き合いだから。
そんな様子を見せていても、恋人の言葉には振り返るスニョンを見て、スングァンは考えた。これが愛じゃないっていうなら、世の中に愛なんてないのかもしれない。
ジフンは言葉を返さなかった。代わりにスニョンのシャツの襟を掴んで顔を引き寄せ、素早く、慣れた動きで伸び上がる。二人の唇がぶつかった。
ジフンの舌がスニョンの口に滑り込むところを目撃したスングァンは、危うく地面に崩れ落ちるところだった。
さっきまでの喧嘩の延長戦のようなキス。それでもジフンの腰に回されたスニョンの手は、繊細な美術品を扱っているみたいに優しかった。
膝の力が抜け、スングァンはさっきまで座っていた席に体を投げ出した。
隣に座ったままのハンソルが小声で笑う。最初からこうなるって分かってたみたい。
近くのレーンからヒューッと口笛を吹く音が聞こえ、ジフンが唇を離す。手だけがスニョンの首に置かれたまま、やさしく肌を撫でていた。
スングァンは二人から目を逸らし、ハンソルの方に顔を向けた。
恋人たちが話す時間だ。内容はきっと、聞かないであげた方がいいだろう。
ジフンの声は静かだったけれど、スングァンの席まではっきりと届いた。
「ごめん …… お前といると心臓がいうこときかない」
ハンソルと目が合う。
煌めく瞳が、彼にもジフンの言葉が聞こえていることを物語っていた。
「怖いくらいだよ。そのうち心臓発作にでもなるんじゃないかってくらいうるさくなって —— 」
聞き慣れた音 —— スニョンの高い笑い声が空間を満たす。スングァンは頭を軽く振った。拡声器でイルカの鳴き声を流されてるみたいだ。
「おれもだよ」ひとしきり笑い終えたスニョンが言った。
「何が?」
「おれの心臓も。なんていうか
……
一緒にいるときだけ、コントロールがきかなくなっちゃう感じ」
ハンソルが呆れたようにフンと鼻を鳴らす。それでも目尻にはまだ、楽しげな色が浮かんでいた。
その笑顔を見て、スングァンは思い出した。
ハンソルと出会った、あの夜のことを。
***
スングァンはその夜の大部分を、トイレでひたすら吐き続けるスニョンの面倒を見て過ごしていた。ソクミンの開いたパーティーの、よりによって数日前に、スニョンは恋人と別れたばかりだった。
何のパーティーだったかはよく覚えてないし、スニョンのろくでなしの元恋人の名前も、記憶から綺麗に消し去ったからもう思い出せないけれど。
そしてその日、失恋したスニョンが悲しみを紛らわす方法に選んだのは、もちろんアルコールだった。
というわけで、誰かがトイレのドアをノックした時のスングァンの返事は至ってシンプルだった。
「取り込み中!ヤる場所探してるなら他を当たって!」
扉の向こうの人間はどうやら配慮に欠けていて、諦めが悪かった。止まらないノックの音に降参し、スングァンは勢いよくドアを押し開けて
——
数秒の間言葉を失った。
こんなに綺麗な人を見るのは、生まれて初めてだったから。
「ごめん。音楽のせいで頭が痛くて。ここに避難させてもらいたいんだけど」
スングァンにできたのはただ頷き、脇によけて相手を通すことだけだった。
「この人は無視して」
スニョンの方向に首を傾け、スングァンは言った。
「失恋したばっかりで、色々大変でさ」
「大丈夫なの?」
見知らぬ男が、割と本気で心配そうな声で言う。
「大丈夫。どっちにしろあんなやつとは別れた方がよかったし」
ぎこちない空気が漂う。スングァンは沈黙を破り、質問を投げかけた。
「頭痛がするんだっけ?」
スニョンは便器に頭を乗せて眠っていた。絶対汚い。でも移動させたらまた吐くかもしれないし。スングァンはそんなリスクを負いたくなかった。
つまるところ、この見知らぬ相手と喋る以外、今は他にすることもない。
「まあ、ちょっと。空気が合わなくて」
「僕のヘッドマッサージ、評判いいけど?」
「してくれるんだ?」
スングァンは肩をすくめた。「他に何かやることありそうに見える?」
スングァンの返事を聞き、相手は面白そうに目尻に皺を寄せた。
その笑い方が好きだと思った。口元だけじゃなく、瞳でも笑うところが。
「ありがとう」男がスングァンに近づきながら言った。
「タダでマッサージしてもらえるなら、名前くらい聞いておいた方がいいかな」
「スングァン」
「スングァンね、」
繰り返された自分の名前を聞いて、スングァンは思った。これも好きだ。彼の口から出る自分の名前が、その音が。
「俺はハンソル」
「
……
ハンソル」
スングァンもまた、相手の名前を繰り返した。
この時はまだ、その後何年にもわたって、その名前を呼び続けることになるなんて知らなかった。
彼の名前を呼ぶたびに大きくなり続ける、自分の気持ちのことも。
***
思い出に浸っていたのは一瞬のことのように感じたけれど、スングァンが気が付くと、気遣うような顔をしたハンソルが目の前でひらひらと手を揺らしていた。
「なに?」
「ぼーっとしてたから」
「あー
……
大丈夫、ちょっとショック受けただけ」
ジフンが少し決まり悪そうな笑顔を向ける。スングァンの知らないうちに二人はまた席に着いていて、ジフンの腕はスニョンの腰に回っていた。
「ごめん、スングァナ」
「いいじゃん、ちょっとキスするくらい」
スニョンが抗議の声を上げる。いや、さっきのキスは『ちょっと』とは程遠かったけど。
「お前らも回りくどいことしてないで、付き合っちゃえばいいのに。さっさとこっち側に来なよ」
ハンソルの返事は自動応答のようだった。
「いや、『まだ』だよ、ヒョン」
不満そうに軽く舌打ちをしたスニョンが、鋭い視線を寄越す。「あっそ。でも早くして?そしたら一緒に楽しめるじゃん」
スニョンの言葉を聞いたジフンが笑い声を上げた。
「意味深な言い方するなって!俺はこれ以上言わないけど。スングァンにトラウマ植え付けたくないから」
「意味深って何、
4P
とか?」
スングァンは今度こそ気を失うところだった。
「ほんとにやめろってば、スニョン。スングァンのメンタルが限界」
ジフンがスニョンを席から押しやった。
「ほら、球持て。お前の番だろ」
「タマ?それも下ネタだと思うんだけどなあ
……
」
ぶつぶつ言いながらも恋人に一つウィンクを投げ、スニョンはレーンに向かった。慈しむような眼差しで、ジフンがその背中を見送る。
その様子を見て、スングァンはまた思った。そう、これが愛なんだ。
ヒョンのあのろくでもない元恋人なんて、道に落ちてた大きめの石みたいなもの。少しつまづいたけどちゃんと立ち直って、本当の愛に辿り着いたってことだ。
そのことが心から嬉しかった。
[4]
その年の夏休み、スングァンは済州に帰る前の数日間を、ハンソルの実家で過ごすことにした。
スングァンはハンソルの家族のことが大好きだった。それに —— 少しだけ自惚れたことを言っても許されるなら —— ハンソルの家族の方も、スングァンのことをまあまあ好いてくれていると思っている。
母親は夕食のときにいつも一番大きい肉を取り分けてくれるし、妹のソフィアは家の周りを案内してくれて、スングァンに歌を歌ってと頼む。
他の二人より寡黙な父親は、スングァンの背中をバンバンと叩いてくれたりする。咳き込むくらいの強さでも、その時は何かの勲章を与えられたみたいに、誇らしい気分になる。
その日は暖かくて天気の良い日で、ソフィアの黄色いワンピースが太陽の下で眩しく輝いて、そっちを見るたびに目がくらみそうなくらいだった。
ハンソルは二人の近くで、近所で飼われている犬の相手をしていた。
「そういえばオッパ、何か私に言うことない?」
「うーん、例えば
……
?」
スングァンは、ソフィアにジュースの缶を手渡しながら返事をした。
「本気?」呆れたような表情で、ソフィアが缶を受け取る。
「何、なんで?」
こういう顔はハンソルに似ているな。そう思いながらスングァンは笑った。
瞳に灯る静かな炎からあごの突き出し方まで、チェ兄妹のトレードマークのむっとした表情は本当にそっくりだ。
「ほんとに何のこと?この前聴かせてくれたカバーのことなら、もう感想なんて出てこないないってば。何度も言ったけど、すごく素敵だった」
「違うって!」
ソフィアの頬にさっと赤みが差した。呆れたように胸の前で腕を組む。
「うちのお兄ちゃんと付き合い始めたのかどうかって話!」
その時スングァンは、上を向いて寝そべっていた。日焼け止めを十分塗ったかどうか若干自信がなかったけど、ビタミン D は大切だから太陽も浴びなくちゃ。
突然の言葉に動揺すると同時に、頭を支えていた腕の力が抜ける。
どさりと音を立て、スングァンは地面に体を投げ出した。心配そうな声が耳に届く。
「オッパ、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
そう返事はしたものの、しばらく起き上がれそうにない。「ボノニとは別に、」
言いかけた瞬間ハンソルの顔が目の前に現れ、スングァンは思わず口を閉じた。
上下逆さまの顔が、視界いっぱいに広がる。今にも鼻先が触れそうなほどの距離。
「大丈夫?」
スングァンは返事代わりにハンソルの肩を押し返した。効果なし。
「そばかすが見えてる。かわいい」
逃げようと身体を捻ったが、相手の方が一歩早かった。回り込んだ両腕に頭が捕らわれる。
公園のど真ん中なのに。これじゃひと息つく暇もない。
「どいて」
ソフィアに届かないよう小声で口に出した言葉は、思っていたより鋭く響いた。
ハンソルの悪戯っぽい表情が一瞬で引っ込み、スングァンの頭も解放される。
「ごめん」
ハンソルが首の後ろを掻きながら言う。スングァンは、目を逸らしたまま体を起こした。
「スングァナ、ごめんってば」
ほんとに懲りないやつ。
「ジュースいる?」
二人の間の空気にはまるで無頓着な様子で、ソフィアがハンソルに声を掛ける。
自分でもよく分からなかった。周りのみんなにハンソルとスングァンの仲を疑われるのが不快で、腹が立ってるんだろうか?そんなはずない。うん、そう、付き合ってるよ —— そう答えられればいいと、スングァン自身も本当は思っているから。
思わせぶりなのに何も行動に移してこないハンソルのことが腹立たしいのかもしれない。スングァンに希望を与えると同時に取り上げ続ける、この『親友』のことが。
そうだ。絶対にそのせいだ。
「サンキュ」
ハンソルが、受け取った缶をスングァンの腕に押し当てる。スングァンは突然の冷たい感触に飛び上がった。「ちょっと!」
スングァンの送る冷たい視線にハンソルもついに諦め、話し相手を求めて妹の方に向き直った。
「二人で何話してたの」
兄の質問に、ソフィアがスングァンに向けて許可を求めるかのように片眉を上げる。
もう好きにしな。スングァンはただ肩をすくめた。
「お兄ちゃんがもうスングァニオッパに告白したのかどうか、聞いてたところ」
映画のワンシーンのような展開になるはずだった。
ハンソルの手からジュースが落ち、草の上に敷かれたブランケットにシミを作る。目は見開かれ、頬は赤く染まる。動揺したせいで言葉に詰まって、そして
——
現実には何も起こらなかった。
代わりにハンソルが返したのは、いつも通りの言葉だけ。
「いや、『まだ』だけど」
スングァンは決めた。いつまで待てばいいかなんて、もう考えない。
待つこと自体を諦めよう。そう自分に言い聞かせることにした。
[5]
「何その顔?」
スニョンが持っていたビールのボトルでスングァンを小突く。
「試験は終わったじゃん。元気出しなって!」
スングァンは指で瓶の飲み口をなぞった。今日はどうもそんな気分じゃない。
今日はというより、今日みたいな日。ハンソルがあんな格好をしている日は、特に。
前髪は上げて、首からはシルバーのネックレスを下げて、全身黒で揃えて。飢えたハゲタカみたいな若者たちを呼び寄せているようなものだ。
頭の上に特大サイズの看板が見える気すらした。『どうも、ホットな男です。おまけに今はフリーです』
「気が乗らないの」
「ボノニと喧嘩?」
首を振り、静かに否定する。
「俺にはなんでも相談していいんだからね?俺だってお前になんでも話してるんだし。あの話はもうしたっけ、ジフニが舌で —— 」
スニョンが言い終える前に、スングァンは急いでその口を塞いだ。手のひら越しに、スニョンの口が弧を描いたのが分かった。
「いい、それもう聞いたから!」
食いしばった歯の隙間から絞り出すようにして言う。
この二人の夜の事情についてこれ以上聞かされる羽目になったら、スングァンは高速道路に身を投げ出すかもしれなかった。
「プライバシーってものもあった方がいい気がするけど、でもそうだね分かってる、なんでも相談します、はい」
満足気に笑ってスングァンの髪をぐしゃぐしゃに掻き回したスニョンは、そのままの勢いで恋人の居所を探しにフロアへと向かっていった。
ハンソルは、ミンギュとバーカウンターで話している。カウンターの中ではウォヌが働いていた。土曜日の夜はいつも忙しそうだ。
スングァンは、ソクミンが隣に滑り込んでくるまでの間、ぼんやりとハンソルを眺めていた。
「どうしたの?」
スングァンの視線の先を眺めがら、ソクミンがアイスティーを一口飲む。
今晩の運転手だ。酔い潰れる前に拾ってもらうこと
——
スングァンは頭の隅に書き留めた。
「 …… ハンソリは僕のこと好きだと思う?」
スングァンの質問に、ソクミンがストローごとアイスティーを吹き出した。
「 …… あっそ」硬い木のテーブルに顎を乗せる。「そんな反応しなくてもいいのに」
「違う、そうじゃなくて!びっくりしただけ!ようやく気付いたんだと思って」
「今度はからかう気?」
突然真面目な表情でグラスをテーブルに置いたソクミンが、スングァンの目を真っ直ぐに見つめた。
「『えびせん』」
他の誰が聞いても、意味が分からないはずだ。ソクミン以外の誰かがスングァンに言ったとしても、何の意味もない言葉。
でもその一言は、ソクミンの真剣さを伝えるのには十分だった。
『えびせん』は二人の合言葉だった。
カラオケで注文する、特別おいしくもない(とスングァンは正直思っていた)えびせんのことを、ソクミンはやたらと気に入っていた。時にはカラオケの室料よりも、飲食代の方が高くなるくらい。
高校時代、ソクミンがスングァンを残して卒業する少し前のこと。
その日一緒に行ったカラオケの一室でソクミンがこう言った時、スングァンは思わず泣くところだった
——
ずっと親友だよ。このえびせんよりも愛してるから。他の何よりも。このえびせんにかけて誓うから。『えびせん』が俺たちにとっての『永遠』だからね
——
「 …… なんで付き合おうって言ってくれないんだろ」
ソクミンは、返事を真剣に考えているようだった。
「それ、本人に聞いた方がいいんじゃないかな。あとさ、なんで待ってるの?自分から言えばいいのに」
なるほど。
言われてみれば、確かに。
「スニョンイヒョンよりもだいぶアドバイス上手だね」
「それ、あんまり褒められてる気がしないんだけど」
ソクミンがわざと作った真顔は長くは保たず、二人は同時に吹き出した。
たわいもない話で盛り上がり始めた頃、ハンソルが二人の席に近づいてくるのが見えた。気づいたソクミンが、ウィンクを残して席を立つ。
「楽しんでる?」
うん、今は楽しいよ。ハンソリが来てくれたから。
言葉でそう答える代わりに無言で頷く。
ハンソルの浮かべた笑顔を見て、スングァンは思った。もう見慣れた表情だけど、きっと慣れることなんてない。いつ見ても息が止まりそうになるような笑顔だ。
おまけにハンソルが髪を掻き上げたせいで、スングァンは跳ね上がった鼓動を一旦鎮める羽目になった。
こんな動作一つがスングァンに、そして周りの人間にも、どんなに魅力的に映っているか。本人は完全に無自覚だからタチが悪い。他の誰にもこんな姿見せたくないのに。
「ハンソラ、」
意を決して口を開く。脈が速くなるのを手首で感じた。
「なに?」
言葉を続けようとしたところで、スングァンは二人の座るテーブル目掛けてやってくる人影に気がついた。
知らない子
——
綺麗な女の子だ。視線の先はハンソルに固定されている。
「こんばんは」
ハンソルは、スングァンと突然の乱入者のどちらに目を向けるか決めかねているようだった。
やがてその視線が自分から離れるのを見たスングァンは、椅子の縁をぐっと握りしめた。
「さっきから気になってたんだけど、誰かお相手はいるのかなって …… もし一人なら一緒にあっちで踊らない?」
このタイプのお誘いにしては、彼女の言い方は礼儀正しくすらあった。スングァンが動揺する必要も、機嫌を悪くする理由もない。
それでも、ハンソルがほんの一瞬返事に迷った
——
ただそれだけで、さっきソクミンにもらった勇気は、スングァンの中から消え去った。
「彼なら空いてるよ」
代わって返事をする。少し声のトーンが明るすぎたかもしれない。
まるで今ようやく存在に気づいたみたいな様子で、乱入者はスングァンの方を見た。まあ、無理もないよね。だって彼女の前にいるのはハンソルだ、他の人間なんて目に入るわけない。
ついでに一言付け加えておく。「それに君とぜひご一緒したいってさ」
軽い会釈とともに、期待を込めた瞳がハンソルに向き直る。一方のハンソルは、スングァンの方に視線を戻していた。
困惑の表情を浮かべるハンソルに、スングァンは軽く微笑んだ。自分の笑顔がその目に届いたかを確かめる前に、席から立ち上がる。遠くからスニョンに名前を呼ばれた気がしたけれど、足を止めずに出口へと向かった。
「スングァン」
通りを突き進むスングァンを、声が追いかけてくる。今度はスニョンの声ではなかった。
「スングァナ。ブ・スングァン!どこ行くの」
「家」
スングァンは振り向かずに答えた。ハンソルはすぐ後ろをついてくる。近いけれど、近いと呼ぶにはまだ遠い距離。
「じゃあ送る」
その言葉に足を止めると、ハンソルもその場で立ち止まった。数歩で詰められる距離はそのままに。
いっそこっちまで来て、怒る気もなくなるまでほっぺたでもつついてくれればよかったのに。
「いい」
「いや、もう遅いし
……
一人で歩かせたくない」
「いいってば」
スングァンの言葉に、ハンソルが諦めたようにため息を漏らす。
「なんで怒ってるの」
質問じゃない。この言い方は、事実の指摘。
スングァンはその場で爆発しそうになるのを必死で堪えた。何がしたいの?『相手の気持ちを正確に当てられましたで賞』が欲しいとか?そもそも誰のせいだと思ってるわけ?
いけない。深呼吸。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
昔ボーカルレッスンの時に習った呼吸法を思い出して、気を落ち着ける。
「話なら聞くから」
我慢の限界だった。振り返って、一言言い放つ。
「『まだ』嫌だ」
ハンソルが、物理的に突き放されたかのように一歩後ろに下がる。
スングァンは踵を返して、今度こそ家へと歩き始めた。ハンソルはもう、追ってはこなかった。
[+1]
3
日間。
これがスングァンがハンソルと連絡を取らずにいられた期間だった。
スングァン宛てには一切連絡が来なかったけれど、スニョンはハンソルに質問攻めにされていたらしい。
スングァンは毎食食べているか、ビタミンのサプリは忘れず飲んでいるか、夜はちゃんと寝ているのか
——
本人はそのすべてを放棄していたらしいけど。
そして 3 日が過ぎて、気付けばスングァンは、ハンソルの部屋の扉をノックしていた。
ドアを開けてくれたハンソルのルームメイト、ミンハオの呟いた「やっと来た」が耳に届く。どうやら来るのを待ち望まれていたらしい。
彼の言葉を借りると、ハンソルが夢遊病みたいにそこら中をフラフラ歩き回るせいで「フロア全体のバイブスが台無し」になっているから、だそう。
ミンハオに招き入れられた部屋の中で、ハンソルは眠っていた。
起こさないようにそっと上着を脱ぎ、隣に滑り込む。どうせだし一緒に眠ろうと、ブランケットの端を拝借して目を閉じる。とはいえ、数センチ先にハンソルの顔があることを考えると、無駄な努力だった。
ハンソルが目を覚ましたのは、
1
時間ほど経ってからだった。
まだ眠そうな目が何度か瞬いて、ゆっくりと微笑む。伸びてきた指がスングァンの額から鼻、唇をゆっくりと辿った。
指が触れる感触にスングァンは無意識に唇を開き、ハンソルは驚いたように手を引っ込めた。勢いよく戻った手が顔に当たる。うわ、痛そう。
その反応の勢いに、スングァン自身の胸も少し痛んだ。
「待って」寝起きの声が耳に届く。「本物?」
「え?」
手のひらでごしごしと目をこすり、何度か瞬きをしたハンソルとようやく目が合う。
「夢かと思った」
「僕が夢に出てきてベッドに寝てたらとりあえず顔を撫で回すの?」
言葉にすると馬鹿馬鹿しく聞こえるものの、胸のときめきは抑えられなかった。それでも心のどこかで小さな声が現実を突きつけてくる。
そう、別に付き合ってるわけでもないんだ
——
『まだ』。
「ねえハンソラ、」
柔らかな「なに?」を聞き、そのまま言葉を続ける。
「もしもだよ、もし僕に付き合ってって言われたらどうする?」
唾を飲んだハンソルの喉仏が動くのを見ながら、返事を待つ。
「今?」
「ダメな理由があるってこと?」
「あるけど
……
?」
躊躇いがちな声が尻すぼみになる。
「理由って?」
スングァンは続きを促した。もし理由があるなら、ちゃんと理解したいから。理由があるなら待つこともできる。ハンソルのためなら、いくらでも待てるし、待ちたいと思った。
でもハンソルが矛先を向けたのは、スングァン自身だった。
「卒業するまで嫌だって、前に言ってたから」
少し距離を取って、ハンソルの顔をじっと見る。冗談を言っている様子はなかった。
だけど、そんな話をした覚えも一切ない。記憶喪失かな?簡単に忘れられるような会話じゃないことは確かなのに。
「いつの話?」
「初めて会った日」
「初めて会った日!?」
小声で叫んだ勢いでベッドが揺れる。
「あー、うん」
拾われたばかりの捨て猫みたいな、純粋な目が瞬いてスングァンを見つめる。
「わざわざ彼氏作るスニョンイヒョンのことが理解できないって。絶対いやだしせめて卒業してからがいい、『男なんて時間の無駄』」
最後の一言はスングァンの声色を真似たのか、ハンソルの普段の声より少し高かった。認める、正直似てたよ。
段々とではあるけれど、事態が飲み込めてきた。今までのハンソルの態度や言葉、理解できなかった全てのことが頭の中で繋がる。
スングァンは肘をついて半身を起こした。見下ろす形で目を合わせる。
「ねえ、いつも人に訊かれたら『まだ』って答えてたのってそれが理由ってこと?」
「えっと、もしそうだって言ったら殴られそうだから
……
ちがう」
「ちょっと、」
胸を軽く叩いたその手をそのまま握られる。指が絡まり、心臓の鼓動が跳ね上がった。
「真面目に答えて。本当に?」
「スングァニがそう言ったんだって。覚えてるよ」
ハンソルの声は淡々としていた。
スングァンは一周回って笑い出すところだった。思い出せないけれど、少なくともハンソルは嘘はついていない
——
嘘だったらスングァンには分かる。
たった
2
年前のことだし、ハンソルが丸ごと覚えてるくらいだ。本当に自分がそう言ったんだろう。
「気持ちを尊重したくて。それだけ」
「嘘でしょ、そんなこと信じてたなんて!」
ハンソルの手をぎゅっと握りしめる。「あの時は死ぬほど酔ってたんだってば!」
よかった。謎は解けたしもう大丈夫だ。幸せで、満たされた気持ち。触れた手のひらから温もりが全身に広がるような気がした。
「スングァニの言うことならいつも信じるよ」
当然のように言われた言葉に、全身の体温がさらに上がるのを感じた。
そのままゆっくりと身を乗り出して鼻と鼻を擦り合わせ、距離を詰めて唇を重ねた。二人のバランスを試すような、唇の表面を押し当てるだけの軽いキス。
ハンソルが伸び上がりキスが深くなったのを合図に、勇気を出して少しだけ唇を開いた。ハンソルの舌が滑り込んでくる。
ハンソルの指がゆっくりと、慎重な手つきでスングァンの髪を撫でる。その仕草の甘さに、スングァンはキスを続けながら微笑んだ。ハンソルにもそれが伝わったのか、どちらからともなくクスクスと笑い出す。お互いに伝染した笑いはしばらく止まらなかった。
「好きだよ」
ようやく二人の間に心地よい沈黙が戻り、ハンソルが言った。絡めた指は、まだしっかりと繋がっている。
「それはよかった」顔が熱くなるのを冗談でごまかす。「じゃなきゃ気まずくなるところだったね」
ハンソルが頭を上げ、わざとむっとした顔を作ってスングァンを見つめる。 スングァンには、ハンソルが何を求めているか分かった。同じ言葉だ。
思えば、ハンソルがくれたものはたくさんある。色々な形の、たくさんの愛。応援、思いやり、尊敬……挙げ始めたら本当にきりがない。
だから、スングァンも同じだけのものを返そうと決めた。
「僕も好き」 唇を噛み、少し躊躇ってから一言付け加える。「付き合おうよ、今から」
「それはよかった、」
からかうような返事に対しても、怒るなんて無理だった。だってこんなにも幸せで、しかもその幸せの理由は他の誰でもない、ハンソルなんだから。
「『今から』が楽しみだな」
