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Chapter 1
「お返しとレシートです」
ジフンは、レジの前に立つ客に小銭を手渡しながら笑顔を向けた。猫のような目をした客は笑顔らしきものを返そうとしたようだが、やつれた目元と額にへばりついた絵の具の跡から、目を開けているのがやっとの状態であることが分かる。ほぼ手探りでカウンターから絵の具のチューブを掴み取った客は、ガラスの扉に頭から突っ込みかけながらもふらふらと店から出ていった。
芸術学部のやつだろうな。レジ横の椅子にもたれかかり、ジフンは一人考えた。何に苦労しているかは知らないが、上手くいきますように。ジョンハンを見ていると分かることだが、あの学部の学生たちは四六時中課題に追われているようなのだ。
スピーカーから流れる曲に合わせて歌詞を小さく口ずさみながら、壁に掛かった時計を一瞥する。そろそろ5時になるところだった。閉店まではあと3時間。
この画材店でのバイトが嫌いなわけではなかった。来店する客のほとんどはジフンと同じ大学の、美術専攻の学生たちで、大抵は長居もせずにさっさと帰っていく。店の主人も気の良い人間で、店内のBGMは自由に決めさせてくれるうえ、時々ジフンの友人たちが遊びに来ても特に嫌な顔をしない。いい職場だ。
ドアにぶら下がったチャイムが音を立てる。顔を上げると、同年代くらいの男が一人入ってくるところだった。スマートフォンの画面と棚に書かれた商品名を交互に凝視しながら店内を歩くところを見ると、初めて店に来たようだ。着ているTシャツには『プレディス大学ダンス部』の文字がプリントされている。大方、他の部員の代わりに買い物にきたのだろう。
初来店だろうと思った理由はそれだけではなかった。特徴的なきゅっと吊り上がった目尻は、もし見たことがあれば覚えているはずだ。
ジフンはいつの間にか、7番通路で手に取った絵筆をじっくり眺めている客のことを観察していた。身体は細身で、顎のラインもシャープだが頬はふっくらとしている。薄く開いた口からは舌がちらりと覗き、集中しているせいで眉間にはしわが寄せられていた。整った顔立ちで——言ってしまえば、タイプだった。視線を降ろせば、ジーンズ越しにでも脚のラインが綺麗なことが分かる。
絵筆を片手に握った客は、スマートフォンの画面から目を離さないまま、レジの方にゆっくり歩きはじめた。
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「あの、これって——」
質問しようと顔を上げ、レジに立つ店員と目が合った瞬間、スニョンは言葉を失った。こんなに綺麗な人、見たことない。目は細く鋭いが輪郭は丸く、鼻は小さくてかわいらしい。黒い髪がふわりとその顔を象っていた。 訝しげな表情で自分を見つめ返す店員と目を合わせ続けて数秒間。相手が少し居心地悪そうに動いたのに気付いても、スニョンは目を離すことができなかった。
「えっと……それ、買いますか?」
握りしめられたままの絵筆を指差し、レジに立つ店員が伺うような表情で尋ねる。 スニョンは無言のまま頷き、手の中の筆を手渡すと、店員がレジを打つ様子をただ眺めた。
「5400ウォンです。お支払い方法は?」
レジから目を上げた店員と、睫毛越しにまた視線がぶつかる。うわあ、綺麗な目。スニョンは気もそぞろなままに財布を掴み、中から抜き出したカードを手渡した。
「……これ、クリスピーチキンセットのクーポンですけど」
差し出されたカードに視線を向けると、カーネル・サンダースのイラストがスニョンに向かってにっこり微笑んでいた。顔が一気に熱くなるのを感じる。スニョンはもごもごと謝罪を口にしながら財布を探り、どうにかクレジットカードを引っ張り出して店員に差し出した。恥ずかしさのあまり、ただ目線を落として自分のスニーカーを見つめることしかできない。
よくやった、クォンスニョン。上出来だ。
会計が済み、レシートと筆を引っ掴んで店から逃げ出そうとしたところで、レジの向こうから制止する声が上がった。
「あの、これ……クーポン、いらないんですか?」
訝しげにクーポン券を差し出す店員に見とれつつも、スニョンは穴があったら入りたいくらいの気持ちだった。
「あ、いえ、あの、あげます」
考える前に口が動く。この状況から逃れようと働くのに必死なスニョンの脳に、発言を吟味するほどの余裕は残っていなかった。
「そのセット結構おすすめで。だからその、なんか、チップだと思って?もらってください、ハハ……」
本当にもう黙ったほうがいい。
耳が燃えるように熱い。羞恥心に負けたスニョンはレジに背を向け、店から一目散に逃げ出した。
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ジフンは閉まるドアを眺め、あっけに取られて目を瞬いた。手の中に残された紙切れを見下ろしてみる。
クーポンの有効期限は切れていた。
思わず大きな笑い声が漏れる。今の、何だったんだ?
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学生寮の自室に戻ったスニョンは、ソファーに顔を埋めて呻き声を上げた。
「写真まで送ったのに、このヒョンはまったく」 同室のミンハオがぶつぶつ呟く声が聞こえてくる。 「逆にどうやったら違うやつを買ってこられるわけ?」
スニョンはもう一度、さらに大きな声で呻くしかなかった。
Chapter 2
その日ジフンは、散々な一日を送っていた。
まず、かけておいたアラームに気づかずに、朝9時からの音楽理論の講義に遅刻しそうになった。教授にネチネチ言われたくない一心でキャンパス内を猛ダッシュし、どうにか辿り着いた教室は空っぽ。その場で受信トレイを確認すると、休講を知らせるメールが届いていた。カン教授のクソ野郎。
続いてバイト先では、店に顔を出したスンチョルに、スターバックスのコーヒーを着ていた服にぶちまけられた。元は白かったシャツを見下ろしたときにはさすがに目元が引き攣ったが、怒鳴らなかった自分が誇らしい。とはいえ、悲しげな子犬のような瞳でひたすらに謝り続けるスンチョルに対して、怒れと言われても無理な話だ。 おかげでジフンは、サッカーファンのスンチョルが唯一持っていた予備の服、マンチェスター・ユナイテッドのユニフォームに着替える羽目になった。サッカーの試合すら観ない自分が「ロナウド」の文字をでかでかと背負っているなんて、本当に馬鹿みたいだ。おまけに、借りたユニフォームは、ジフンには2サイズは大きかった。
そんな一日でも、面白くなるのはこれからだ。
ここ二週間ほど、ケンタッキーのクーポンの客——当たり前だが、本名は知らない——は毎日のように店に通ってきていた。
来るのは大抵夕方の5時ごろ。まずは、店の前をひたすら行ったり来たりしては、入り口の前を通るたびに店の中を覗き込む。この店の道路側の壁は全面ガラス張りなのだが、自分の姿が丸見えなことに気付いているのか、いないのか。ジフンはあえて、見えていないふりをしてあげている。
10分近くうろうろしたあとは、いつも静かに店に入る。カウンターの方を盗み見ながら20分ほど陳列された商品を眺めて回り、鉛筆を一本だけ持ってきて、細心の注意を払って正しいカードを取り出して支払うのがお決まりのパターンだ。ジフンはいつも内心面白がりつつ、鉛筆のバーコードを読み取りながらその様子を眺めていた。袋は要るかと聞くと断るが、帰る直前になって何か言いたげに毎回躊躇する。そして結局、「ありがとうございました」以外の言葉を発することなく帰っていくのだった。
正直に言えば、ジフンは楽しんでいた。ちらちらと見られていることに気づかないふりをするのも、わざと目を合わせると視線を逸らされることにも、レシートを渡した時に指先が当たると赤くなる顔を見るのも。からかっている自覚はあったが、自分に対して毎度言葉に詰まる彼の様子を見ると、なぜか焦らしたくなるのだ。
今日もまた同じように、クーポンの客は画材店にやって来た。
レジの前でそわそわと会計を待っている相手にレシートと鉛筆を手渡し、赤く染まった耳には気づかないふりをする。何かを言い淀み口ごもる客を、ジフンは片眉を上げて促してみた。
「えっと、いい天気、ですね」
視線を彷徨わせながらクーポンの客が言葉を絞り出した、ちょうどそのタイミングで、雨が窓に当たる鈍い音が店の中に響き始めた。ジフンの目の前の顔が、どんどん青ざめていく。
「本当ですね」
笑い出したい気持ちをなんとか押し殺しながら、ジフンは言葉を返す。窓の外でしとしとと降り始めた雨を見る客は、まるで飼い猫の仇を見るような表情をしていた。
「他には何か……?」
笑いかけながら尋ねようとすると、クーポンの客はぶんぶんと首を振って踵を返し、その勢いのまま出口に向かった。
「あ、ちょっと——」
傘を貸そうかと聞く間もなく雨の中へ飛び出していった後ろ姿を見ながら、ジフンは笑った。面白いやつ。
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一体どこの神様を怒らせたんだろう。部屋の床に大の字になったスニョンは、天井を見上げて考えた。ソクミンとジュンはソファーに腰掛け、スニョンが画材店の店員との悲惨なエピソードについて嘆くのを聞いていた。
「大丈夫ですって」
スニョンを慰めようとしたソクミンの隣で、ジュンが小さく咳払いをして「そうかなあ」と呟いた。間髪入れずに、ソクミンの肘がジュンの脇腹に入る。スニョンは半泣きのまま、両手で顔を覆った。
「また声かけてみればいいじゃないですか、ね?」
優しい優しいソクミンの魂に幸あれ。でも正直、ここから挽回できる気はしない。
「そうそう、その人のこと何か知らないの?相手の趣味とか、話題になるようなこと」
ジュンの提案に、スニョンはしばらく考え込んだ。とはいえ、彼について知っていることなんて何もない気がする。名前も知らないのに、趣味なんて——
頭の中で、豆電球がピコンと点灯した。
「知ってる!」
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クーポンの客が3日間店に姿を現していないことが、ジフンはどうにも気掛かりだった。
決して、指折り数えて楽しみにしているわけではない。けれど、いつもの来訪者がいない店はどうにも退屈なのだ(そういえば、『役立たずのルームメイト』の文句を言いながら絵筆を買いにきた細身の男性客がいた。あれは少し面白かった)。
雨の中を走って帰って風邪をひいたとか?それともからかいすぎたせい?もしかしたら、単に忙しいだけかもしれない。なんにせよ、昨日でちょうど鉛筆の在庫を切らしたところだ。明日入荷するまでは来ても無駄かもしれないし——
ちりんと鳴ったドアの方に目をやると、ちょうど例の客が躊躇いがちに店に入ってくるところだった。店の前をうろうろするのも見逃すほど、考え込んでいたらしい。
いつものように店中をくまなく見て回る姿を眺め、ジフンは内心安堵の息を吐いた。20分間の散策の末、クーポンの客は消しゴムを一つ手に取り、カウンターまでやってきた。
ジフンはレジを打ちながら、相手が何か言おうとしては躊躇し、落ち着きなく足を踏み替える様子を見守った。
「そういえば、昨日の試合見た?すごかった、です、よね?」
ジフンは困惑して目を瞬いた。
「……何が?」
「ロナウドのゴールとか、色々」
落ち着きなくあたりを見回す客は、ジフンとだけは絶対に目を合わせないようにしているようだった。何が起きているのか理解できず黙り込んだままのジフンをよそに、また言葉を続ける。
「ところで、『サッカー』って言葉は19世紀の終わりにつくられたって知ってた?『協会式フットボール』の略で、ア『ソシ』エーションのsocに、cerをくっつけて、サッカー。面白いですよね。あと実は、今までにワールドカップで優勝した国って合計7か国しかないんだって。歴史あるスポーツなのに不思議じゃないですか?あと——」
「俺、サッカーは見ないんですけど」
まだ困惑しながらも言葉を挟むと、目の前で喋り続けていた客の口がぽかんと開いた。彷徨っていた視線がようやくジフンの上に留まる。
「み、見ないの……?でもこの前ユニフォーム着てたから、俺、てっきり、」
なるほど。アレか。
「友達に、服にコーヒーをこぼされて。着替えがなかったからそいつに借りたんです」
ジフンが説明を続けるにつれて、相手の目が見開かれ、顔がどんどん真っ赤に染まっていった。
「てことは、これ覚えたのも全部無駄だったんだ」
クーポンの客が、親指をいじりながら小さく呟く。
逃げ道を探すように店のドアに視線を送る姿のいじらしさに、脳が溶けるかと思った。俺も相当きてるな。そう思いながらも、思わず小さな笑いが零れる。
「それじゃ、あの、今のは忘れてください、あはは……俺はこのへんで——」
「電話番号、聞いてもいいですか」
ジフンの口から飛び出した言葉に、立ち去りかけた客が口を開いたまま固まり、顔を上げる。
「ほら、今うち鉛筆切らしてるので。だから……少なくとも明日までは入荷しないから、その、在庫が入ったら連絡もできるし。まだ鉛筆が要るなら、ですけど」
説明しつつも、じわじわと自分の耳が熱くなっていくのが分かる。
しばらくの間ジフンを見つめて立ち尽くしていた男が咳払いをした。
「……助かるかも。ありがと」
手渡したポストイットに書かれた「スニョン」の文字と電話番号を見て、ジフンは微笑んだ。
顔を上げてジフンを見たスニョンが、照れたような表情で口を開く。
「よかったら鉛筆のこと以外でも電話して。なんか、他のことでも、なんでも」
「分かった」
ジフンの返事を聞いたスニョンの顔に、笑顔が浮かんた。
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「それで結局、あんなに鉛筆なんか買って、何に必要だったんだ?」
「俺、ダンス専攻だよ?ほんとは鉛筆なんて一本も使わないの」
