Work Text:
時折、稀に目が覚めた時にクボが「今日は遅い目覚めだな」だと口にする事があったり、まだ朝食が準備されていない時があった。それだけがこの生活の時間の基準点であった。
色褪せ、時計の針の音があちらこちらで聞こえ続けるあの場所と違ってこの場所は白く、無音で光が差しているせいでひどく眩しく感じられたが夜が暗くないことは随分と便利ではあった。
イサンにとってクボの服装や身なりから今のおおよその時間を割り出す事など簡単な事ではあったがそうして人に向き合って推測し、外の時間に心を向ける事に今のイサンはそこまで関心を向けられなかった。時間のことなんてサンイに聞けば答えがすぐに返って来るだろう。鏡の中に時差がなければの話だが、
かたり、という音で浅かった眠りが覚める。
クボは深夜、イサンが眠りについてから部屋を訪れて何も言わずに静かに先ほど食べた夜の食事を下げて帰っていく前に枕元に銀貨を数枚置いて行く事があった。
イサンがその事を問うと、クボは「そなたの給料だろう?研究費やここでの生活費を抜いた分、幾らかはそなたの手元に残る」
「この部屋よりいでゆく事を許されたらざらずや?この銀貨に意味やあらず、」という言葉を飲み込みながらイサンは手元の銀貨のキンと冷えた感覚をそれが失われてぬるくなるまで触れていた。
使い道の無い銀貨は枕元に積もってゆくものの使い道など無い銀貨はただ山を成して行くだけであった。
クボに言えばある程度の物はこの場所に揃えて貰えていた上にイサンには銀貨で買えるような望むような物がなかった。
数枚を握り締めてぬるくなって手放すのを繰り返す。この場所は随分と冷たいままであった。決して寒いわけではなかった、ただ体温も無く冷え切った白いこの場所で冷たい銀色の鏡に向き合っているとまるで長い冬のような心地がした。
ああ、昔提案された事を思い出す。朋と共に街に工具を買いに行くついでだと市内を遊びに回った日の事だ、まだ九人会が散り散りになる随分と前の事だ、まだT社に来た直後くらいの事だったがもう随分と昔のようにすら感じられる。彼らは今どこに居るのだろうか、
クボが定時に部屋に食事を届けに来る。おそらく夕餉であった。クボは食事をイサンの目の前に置くと立ち上がりそのまま部屋から去ろうとする。言葉を交わすことも少なくなって以来ずっとそうなっていた。
ぎゅっとその袖を掴む
「何か用でもあるのか」
手のひらに指を捩じ込みクボの手袋に包まれた清潔な手を開かせて、白衣のポケットに入れっぱなしにしていた目一杯の銀貨を無理やりと言っていいくらいに握らせる。
「…この場所は…酷く冷える故、今晩は対価を払う故に、夜をひとりにせでくれずや?」
1人で使うには随分と大きいベットの真ん中に置かれた枕をずらしてもう一人横に横たわれるようなスペースを用意する。
布団に潜るよりも前に眠気が襲い掛かってくる。クボは何も言わずにコートを椅子に掛けてイサンの隣で横になった。
背中越しに感じる人の気配や匂いが随分と新鮮で、味気ないこの生活にとっては随分と刺激的なような心地がした。
目を覚ました時にはクボは隣には既にいなかったが既に朝食を運びにこの部屋を訪れている最中であった。
「二度目は無い。僕だって用がある」
クボを私は見ることもせずにそう言い放ち、食事を口に運んだ。味気の無いいつもと変わらない食事だった。クボは自身のコートのポケットに手を入れる。
「そもそもこんな事で給与を使うべきでは無いだろう。返しておく」
目の前に目一杯の銀貨の山が整えられた状態で置かれる。それが無性に冷たく感じられて、まだあの鏡面の方が血の通った気すらするほどだった。
「……はじめよりそなたがこの部屋よりいでゆく事を許されたらざらずや?………テウォン?そなたが私に与えしこの銀貨に意味やあらず」
クボはその赤い瞳を見開き、手を上げる。咄嗟に身構えて瞼を閉じたものの一向にじんとした痛みがどこかに走るという事もなかった。クボは深く息を吐いて何も言わずに踵を返し、部屋を立ち去っていく。
私は自分でどこか、痛みがある事すら期待していた頬をそっと撫で付ける。
こんなにもここは凍える程冷たい場所であるのに、痛みの一つもないのかと、
